Desperate Bicycles:ドラマーは14歳
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Desperate Bicyclesのファーストシングル
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Smokescreen:MONOなのだ
Desperate Bicyclesのセカンドシングル
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The Medium Was Tedium:STEREOになった
Desperate Bicyclesのセカンドシングル:
ジャケット裏面
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ここに、ファーストシングルの費用が書いてある
”パンク・ブーム”は1978年の幕開けと同時に終わってしまった。ファイル 33-1.jpg
Desperate Bicyclesのファーストシングル
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Smokescreen:MONOなのだ
Desperate Bicyclesのセカンドシングル
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The Medium Was Tedium:STEREOになった
Desperate Bicyclesのセカンドシングル:
ジャケット裏面
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ここに、ファーストシングルの費用が書いてある
マスメディアや音楽紙は、新しいブームを作り出すことに勤しんでいるのだから、”1977年はパンクの年”でよかったのだ。
しかし、同じネタを長く使う訳に行かない。
”パンク・ブーム”も終わってもらわないと次に移行出来ない。
そんな時、絶好のタイミングでSex Pistolsが空中分解した。
これで、話題に事欠かない。”パンク・ブーム終焉”だ。
ところがどっこい、パンクは生きていた。
ステレオタイプ化したパンクは死んでもらって結構。
パンクは自由な発想で新しいことに挑戦していた。
先ずは、ファンジン。
”自分たちのバンド”を自分たちのやり方で世間に知らしめる。
いや、手垢にまみれた手法ではなく、それこそ、手書きで伝えたいことだけを、もっと身近な方法(コピーにホッチキス)で、知らせたい人や知りたい人に伝える。
作り手の情熱とアイデアだけで成り立っている情報ツールが先ず出て来た。
次は、レコードの自主制作に”自分たちのバンド”が動き出した。
有名なバンドはメジャーと契約してレコードを作ることが出来るが、昨日楽器を手に取ったばかりのバンド達にまでレコード会社は興味を持つことは無い。
ましてや”明日なんか知ったことか”と言っているようなパンクバンドのレコードを、予算立てして計画的にプロモーションすることなどリスクが大きすぎる。
商品(レコード盤)が出来た時にバンドが解散しているようでは、売るタイミングを逸してしまう。
パンクバンドにしても、ヒッピーの生き残りのような業界人に媚を売ることは”まっぴらごめん”だった。
それならば、”自分たちでレコードを作ろう”というバンドが現れた。
3時間のレコーディング、500枚プレスに要した総費用は£153。
”簡単さ、安いし、やっちまえばいいんだよ”、この言葉通りに、後に続くバンドが続出。
ロンドンだけでなく、マンチェスターからはThe DronesがO.H.M…S Labelから、グラスゴーからThe ExileがBoring Records(”退屈レコード”なんて言う1977年のキーワードそのもののレーベル名)からといった具合に登場して来た。
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地下鉄Victoria Lineの終点にあったSmall Wonder Recordsでレコードを買うとこの袋に入れられた。
Metal Urban
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Rough Trade最初のシングルはフランスのバンド
The Rings
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Chiswickレコード本部のあったRock Onの前でジャンプ
バンドが独自にレーベルを始めただけでなく、レコード店がレーベルを持つようにもなって来た。地下鉄Victoria Lineの終点にあったSmall Wonder Recordsでレコードを買うとこの袋に入れられた。
Metal Urban
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Rough Trade最初のシングルはフランスのバンド
The Rings
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Chiswickレコード本部のあったRock Onの前でジャンプ
ロンドン市内では、東のSmall Wonder、西のRough Trade、南のBeggars Banquet。
勿論、インディー・レーベルとして1975年から存在していた北のRock OnレコードがやっていたChiswickの存在は大きい。
ロンドン中心部に本社のあったStiffも。
個人的な感想だけど、Rough TradeはフランスのMetal Urbanをリリースしたり、今考えるとポスト・パンクに先鞭をつけていたような気がする。
パンク・パンクしたものって、Stiff Little Fingersくらいだよね。
他には、音楽事務所BTM(Curved Airが在籍)のMiles Copelandは弟のやっているバンドThe PoliceをリリースするためにIllegal Recordを立ち上げ、兄弟レーベルとして、A Step-ForwardとDeptford Fun Cityも作った。
Mark PのSniffin' Glue周辺からは、このレーベルとコンタクトするバンドが相次いだ。
ロンドン以外にも多くのレーベルがあって、マンチェスターのRABIDとNew Hormons、ケンブリッジのRAW、エジンバラのZOOM(レコードのレーベルにジョニー・ロットンの写真が使われていた)とSensible、リバプールのEric'sといったところがすぐに頭に浮かぶ。
マンチェスターのFactoryはほんの少しだけ後の印象(おそらく半年くらいのタイムラグのはず)。
1977年の自主制作レコードを総括したようなアルバムがBeggars Banquetから出た『Streets』だ。
ジャケットに書いてあるように”Select Highlights From Independent British Labels”に偽りなし。
収録バンドをあしらったジャケットのイラストは、Art AttacksのVocalのEdwinことSavage Pencil(この当時SOUNDSに漫画を書いていた)。
全17バンドが”1977年”そのもののパンクロックを展開する。
一気にロンドン・パンクの世界に突入だ(フランスのThe Dogsもあるけどね)。
これでPogo出来ないならば、パンクと縁がないと思って欲しい程だ。
The Lurkersの「Be My Prisoner」はこのアルバムでしか聴くことが出来ないヴァージョンだったり、The Reaction、Arthur Comics?、The Membersはシングルさえ出ていない。
細かいことを言っているよりも、聴いて楽しむことが一番だ。
裏ジャケットのコメントの最後に1977年の意識変化を端的に表している。
”突然、僕たちは何でも出来るようになったんだ”
安全ピンとカミソリにチェーンから始まった”パンク・ブーム”は、退屈で有り余るエネルギーを独自の新しい基準作りに使いだしたのだ。
Scritti Politti
先ずは、レコードの作り方。1978年にリリースされたScritti Polittiの「Shank Bloc Bologna」には、この7インチを作るのに必要な費用明細を、レコーディングスタジオからプレス、ジャケット作成等々、各々連絡先の電話番号まで細かくジャケット内側に記している。
このようにして、レコードを手にした人が次の一歩に踏み出すにあたり必要なお金がどれくらいいるのかを教えたのだ。
ZIGZAG:Small Labels Catalogue '78
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『Business Unusual』ジャケット
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『Business Unusual』についていたポスター
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『Business Unusual』についていたポスター裏はSmall Labels Catalogue
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次に自分たちのレーベル独自のネットワーク作りだ。ファイル 33-17.jpg
『Business Unusual』ジャケット
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『Business Unusual』についていたポスター
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『Business Unusual』についていたポスター裏はSmall Labels Catalogue
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ZIG ZAGマガジンがその手助けをした。
先ず、1978年版レーベル・カタログを、次に弱小レーベルのコンピレーション・アルバムを作ったのだ。
『Business Unusual』とタイトルされたアルバムに収録された14バンドは、1977年パンクそのものの『Streets』とは趣が違う。
A面一曲目のUK Subs「C.I.D」から、重たいサウンドだ。
B面に至っては、Thomas Leer、Robert Rental、Throbbing Gristle、Cabaret Voltaireと、”これがパンク?”と思わずにいられないようなバンドが並んでいる。
リリースされた時に購入した人は、ほとんど何の違和感もなくUK SubsとCabaret Voltaireを違和感無く同じように聴いていたはずだ。
不思議なことに。
なぜならば、ここにある音は”古くっさいロックの音”ではなく、自分たちが欲しかった音だからだ。
パンクと言うと、どうしてもストレートなロックンロールばかりが注目されるが、パンクは自宅でテープレコーダーを使って多重録音を楽しんでいたような奴らにも新しい道を標したのだ。
そう、”何でも出来るようになった”ことで、表現の幅も大きく広がった。
1978年はステレオタイプ化したパンクとおさらばしてPost Punkが始まった。
新しいものに挑戦することを忘れてしまったパンクは、もはやパンクじゃない。単なるノスタルジーだ。
パンクは常に進化し続ける。それは、2013年末の現時点でも同じだ。
だから、私にとってパンクはいつでも魅力的であり輝き続けることが出来る。
ノスタルジーに浸っている暇は全く無い。
Post Punkという言葉は、もの凄く幅が広い。
PiLやThe Pop Groupといったオルタナティブ・ロックを指すように思われがちだが、DischargeのようなHard Core Punkも包括する。
今までパンクの始まりを、間章の文章を出発点にいろいろ調べてみた。
その流れの中で、本格的にパンクという言葉が日本に入って来たのが1976年だったことが解った。
そして、ロンドン・パンクが1977年10月頃から一般誌を巻き込んで大きな動きとなったことも思い出した。
SexPistolsの『勝手にしやがれ』発売直後に新しい息吹”Post Punk”が始まろうとしていたなんて、パンクの始まりを調べようとした時には全く気が付いていなかった。
今回早足で進めてしまった1978年を、次回から細かく見て行くことにしよう。
”パンク・ブーム”が終わっても、パンクは生き続けている。
CREDIT: TAYLOW / the原爆オナニーズ